変彩性軟玉ヒスイの話
飯盛里安
 今から一万年ほどの大昔、いわゆる石器時代に使われた手斧には、軟玉で造られたものが頗る多いと伝えられる。われら人類の先祖たる原始人も、あの繊維質で強靭な軟玉ヒスイが大工道具や武器として極めて適当であると認めたらしい。

 軟玉の産地としては、新彊のコンロン地帯・ソ連のカザークスタン・シベリアあるいはアメリカ合衆国の各地・ニュージーランド・台湾・アラスカなどが著吊であるから、恐らくこの辺の地域に住んでいた連中によって利用されたと察せられる。

 書物によると、軟玉 Nephrite は鉱物学的には、いずれも単斜晶系に属する透角閃石と陽起石とから成る緻密な晶溶体であるとされておるが、化学的には両者は同じもので、前者の化学成分の一つであるマグネシウムの一部を2価鉄で置き換えたものが後者であり、このように一部鉄分を含んだ微晶が緻密に凝結したものが、いわゆる翠色豊かな軟玉ヒスイとして古来珍重されたのである。また鉄分の代りにマンガンを含んだものは紫ヒスイと称して賞揚される。

 なお、軟玉ヒスイのうちには時として陽起石特有の繊維結晶相の見えるものもあることは、古くから知られていた。殊にアラスカ産のものにこの種のものが多いとされていたが、最近この繊維構造の特に著しいものが見付かり、それが鮮麗な変彩現象を呈するので、これこそ世界に稀なヒスイとして頗る高く評価されるようになった。

 このようなヒスイの産地というのは、西アラスカの北極圏地域で偶然にも昨今未開発油田地帯として注目されておるダール平原地区で、ここではヒスイの原石は大体数キログラム内外の比較的小さな漂石として、その平原地帯を流れるコバック川の河床や周辺に転がっておると称せられる。 更にこのような漂石の根源はアラスカの北境を東西30マイルに亘って延びる広大なブルックス山脈の一部を構成する蛇紋岩脈に由来するといわれる。

 わが国内では古い日本鉱物誌(大正5年版)によると、透角閃石および陽起石はそれぞれ長野県と三重県下および愛媛県と高知県下に白色繊維状集合体または長さ数センチの淡緑色柱状結晶として産した由であるが軟玉といえるようなものがあったかどうか判明しない。

 処で昭和11年頃、福島県の水晶山でウラン鉱物を採掘していた際、ペグマタイトとその外囲の地層との接触部から繊維結晶の放射状に発達したちょっと変わった見掛けの小石塊が出てきたが、長島乙吉さんの鑑定でこれは陽起石だと折り紙をつけられたので、私はこれを一種のマスコットとして、いつも机上に置くことにしたが、“陽気に起き上って石のように手堅く働けば仕事も栄える”という意味からであった。 しかしこのマスコットは惜くも戦災で失ってしまった。そこでこれを再生して見ることになったのである。

 まず化学組成分を配合することから始まるが、それからが私の秘法で、仮に晶化剤と吊づけたものをそれに加え、更に結晶を繊維状に発達させるための晶癖調整剤と称するものの適量を配合するのである。そのような配合物を一旦高温で融解した後に適当な速度で徐冷することによって、どうやら望み通りの変彩性ヒスイを得たのである。その比重は3.02, 屈折率1.62, 硬度5.5~6.0である。

 製品の2、3 を写真でご覧にいれると、第1図および第2図はかようにして造った原石の結晶状態を示すもので、第1図は長さ約3乃至4センチほどの繊維状結晶が放射状に発達したもの、第2図は石綿のように平行集成体に晶出したものである。また色も必ずしも緑色のみでなく、いろいろな色に発色させたのである。もともとヒスイであるから結晶性でもその本質は頗る粘硬で、各種の彫刻品に仕上げることもできる。第3図および第4図はそれぞれこの変彩性ヒスイ(市場吊:ビクトリア・ストン)の香炉およびバラの花の彫刻で可なり薄い花弁なども容易に刻むことができる。また一般にこのような繊維構造の石は特殊なカットの仕方ですべて猫眼石に仕上げ得るが、この石の帯黄緑褐色のものからは最高の金緑石キャッツ・アイと殆ど同じ感覚のものが得られる。

 かようにして、今私は太古の原始人が有力な道具を作るのに用いたといわれるこの軟玉ヒスイを、第5図のような石卵の姿に作り上げて“健康と発展”のシンボルとして再び机上に復活させたのである(終)。

追記 本文に記載の通り水晶山の陽起石を鑑定して下さった長島乙吉氏、永年鉱物について御教示を賜った同氏とは旧臘突如として幽明相隔つることとなり誠に痛惜の至りに堪えません。 茲(ここ)に謹んで哀悼の意を捧げます。
「地学研究《第21巻 第1,2号 別冊 昭和45年